大正時代の我孫子

2021年8月23日 お知らせ, 不動産オーナーの方


大正時代の我孫子は、白樺派の柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、バーナードリーチなどの文人、文化人が多く移り住み、『北の鎌倉』と称されたこともありました。そのさきがけとなったのが嘉納治五郎だったそうです。嘉納治五郎は、柔道の創始者で講道館の設立者として有名な方です。また、教育者としても学習院教頭、熊本大学学長(第 5 高等中学)、東京大学学長(第 1 高等中学)、筑波大学学長(東京高等師範学校)などを歴任されました。明治44年に白山1 丁目から 3 丁目の一帯を約2万坪を購入し、この地にお世話になります。
学園構想を目指したとする説があります。嘉納治五郎の柔道の弟子で我孫子出身の血脇守之助(東京歯科大学学長で野口英世の育ての親)から我孫子の地を紹介されたとの説が有力なよう
です。その後、嘉納治五郎の甥にあたる柳宗悦夫妻が我孫子に移り住み、その後、柳から誘われた白樺派の文士や文化人が次々と移り住んできたようです。
大正3年に柳宗悦の別荘(緑1丁目三樹荘)の隣にあった天神様(天神山緑地)の土地からの手賀沼湖畔の景色を気に入り嘉納治五郎が別荘敷地として3千円(現在で1億 3000 万円)で
その山を取得し、別荘を建築されました。その別荘地は嘉納治五郎没後、大企業の経営者や政治家などの手に渡りますが、現在はその土地の一部が嘉納治五郎別荘跡として残るだけとなっています。